自由民主党

衆議院議員 むたい俊介オフィシャルサイト 長野2区 自民党
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理念・政策・メッセージ

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2009.08.07

「精神世界の現代的意義」

〜4年前の岳父の通夜で伺った話から〜


 通夜と告別式の関係は、地域によって大きな違いがある。通夜に一般の人も来られる地域があると思えば、松本周辺では、通夜は親戚などの本当の近親者で執り行う。4年前の岳父の葬儀もその通りで、通夜は20人くらいの近親者で自宅で執り行った。松本市内にある菩提寺の正麟寺の宮澤住職に丁寧な読経をおこなって頂いた。節回しをつけた「諸行無常」の御詠歌を尼さんと一緒に詠い、もの悲しい旋律が遺族の心に響いた。


 仏縁とは本当にある。数年を経ての後、私の衆議院選挙立候補に関し、昨年、正麟寺の檀家の皆さまに私ども夫婦が挨拶をさせて頂けるという機会を賜った。今年もお盆が近づく中で改めて「縁」や「絆」を確認したい気持ちになり、4年前に住職から伺った精神世界や仏縁に関わる話を以下に綴ってみたい。


(諸行無常)
 4年前の通夜の読経の後で住職から講話を伺った。仏教は、世俗のうつろいやすい価値観を超越し何時の世にあっても変わらぬ真実を人々に語っていると言っておられた。「今日までは正しいとされた価値観が明日には全く逆の評価をされる。前に進めと言われたら今度は後ろを向けと。そういうことは世俗の世界ではよくあるが、仏教では2000年以上に亘って続く真実を伝えている。」との指摘には、思わず納得させられた。


 「諸行無常」はその絶対真理の一つに違いない。以前、渡辺照宏氏の著作「お経の話」を読んだことがあった。「諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽」(諸の行は無常なり これ生滅を法となす 生滅にして滅しおわらば 寂滅して楽となる)という般若経の一部の漢訳文があると書いてあった。この漢訳文の意味を今様歌に作ったのが「いろは歌 = 色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」であり、一般的には弘法大師の作と伝えられているものの、七五調のいわゆる今様歌は大師の時代よりもずっと後の成立、と渡辺さんの本には書かれている。


 ところで、通夜の講話の中で、住職から、岳父は生前得度を得ていたと知らされた。岳父は信心深かったのだ。その岳父の縁で、つい数日前に岳父の旧制中学の同級生が私のミニ集会にご参加頂いた。これも仏縁である。


(六波羅密)
 住職によると、仏教では、いろいろな欲望や迷い悩み多いこの現実世界を「此岸」(しがん)と、苦しみのない理想世界を「彼岸」(ひがん)と教えるのだそうだ。迷いの「此岸」を去って悟りの「彼岸」に渡り達するという意味なのである。その修行の代表的実践行為が「六波羅密」で、「向こう岸へ行く6つの方法」があるということになる。その6つの方法とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧なのだそうだ。


 住職からは、このうち布施と持戒についてお話を頂けた。「お布施」というと、お坊さんの読経のお礼に渡すお金、という印象があるが、本来は執着心を外すところに意味があるのだそうだ。従って、例えば、自分の所有物を分け与える、つまり自分のものだとと思ってぐっと握っている手を離すことが執着を離れる実践となる、ということになる。


 持戒に関しては、「戒」というと、遵守すべき決り事という感があるが、仏教の「戒」は、むしろ「習慣づけ」といった意味合いが強いのだそうだ。「戒」を守るのではなく、自分が「戒」に守られている。「戒」を守ることは自分が「戒」に助けられていることだ、と考えるのだそうだ。釈尊の戒めをまもり清らかな心を保つことで、平和な生活は持戒の徳の上に築かれていくものだということになる。


 布施をするのでも相手を害さないという持戒の精神がないと、善意の押しつけ、自己満足の行為になってしまう、と考えるのが仏教なのだ。


(二つの正麟寺)
 住職からは更に曹洞宗の話や最近の仏教界を巡る議論なども伺った。そもそも曹洞宗には本山が二つあり、道元禅師が開かれた永平寺と瑩山禅師が開かれた總持寺がそれなのだそうだ。道元禅師を「高祖」と、曹洞宗を全国に広められた瑩山禅師を「太祖」と仰ぎ、現在では、全国に約15,000の寺院と、1,200万人の檀信徒を擁している。


 松本の正麟寺は、元々は梓川村の金松寺から分かれたのだそうだ。その金松寺は安曇野市の私の本家の菩提寺だ。ところが、明治維新の廃仏毀釈でそれまでの密接な繋がりが途絶えたが、最近では、また曹洞宗のネットワークを復活しつつあるようだ。


 松本の正麟寺には、松本藩主の小笠原家が代々墓を持っていたが、藩主が古河に移封された際に古河に新しく正麟寺を作り墓も持っていったという話も伺った。古河には確かに別の正麟寺があり幕末の知識人兼行政官で著名な鷹見泉石の墓で有名だ。渡辺崋山の「鷹見泉石図」は国宝で、我々が習った日本史の教科書に載っている。


(今日的な精神世界の充実の意義)
 住職の話では、イスラム教やキリスト教に比較し、仏教は「闘いに弱い」という認識があるようだ。確かに仏教の世界には、一神教とは異なり、「しのぎを削る」という面がないのかも知れない。それでもインド発の仏教が東は日本で止まってはいけないということで、曹洞宗で共同して、「アメリカ禅センター」という施設を米国西海岸に作っているという話も伺った。


 最近の精神世界の分野でも様々な活動が展開されている。お葬式やお盆・お彼岸だけの世界では無い。特に、日本人全体の思いやりや道徳心といったものが劣化している中では、精神世界の充実が改めて今日的な意義があるように思う。人は知らないところで意外に深いつながりを有している。その絆を掘り起こし、大切にし、私の目指す政治の精神性を深めてまいりたい。


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