自由民主党

衆議院議員 むたい俊介オフィシャルサイト 長野2区 自民党
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理念・政策・メッセージ

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2025.11.29

「亡き太田寛氏の思い出」


 五十三年前、松本深志高校に入学して以来、人生の歩みを共にしてきた大切な友人が、突然この世を去ってしまいました。十一月二十八日の朝、高校の同級生から訃報を聞いたとき、まさかと思いました。しかし自ら情報を確かめるうちに、それが紛れもない事実であることを知り、胸が張り裂ける思いでした。数日前から体調を崩し、亡くなる翌日に医師の診察を受ける予定だったと伺いました。持病の心臓に加え、インフルエンザにも罹患し、苦しい中で前日の安曇野市議会に臨んでいたと聞きます。まさに身を削る激務の中でのことでした。安曇野市政を担い、二期目の選挙を終えたばかり。高校同窓会長としても責務を果たし、年間四十回もの挨拶を欠かさず務めていたと、わずか六日前の卒業五十周年記念式典で本人が語っていました。それでもその場では、「我が深志同期は奇人変人が多いと言われてきた」、「この場にも相当の人が来ている」と、太田さん特有のユーモアで会場を沸かせていました。その場にいた長野県知事を務めた田中康夫氏、ひょっとすると私も相当の人の一人に数えられていたかもしれません。太田さんとは、彼が旧堀金村、私が旧豊科町の出身で、高校入学以来、毎朝JR大糸線の豊科駅から同じ列車に乗り、北松本駅で下車して蟻ヶ崎の坂を駆け上がった仲でした。あの坂の厳しさが、後の彼の強靭な体力と精神力を育んだのではないかと今も思います。高校ではクラスこそ違いましたが、堀金村の秀才として注目を集め、特に国語や日本史に秀で、「博覧強記の太田」と呼ばれていました。私も負けじと勉学に励みました。彼が京都大学法学部、私が東京大学法学部へと進み、学び舎は東西に分かれましたが、互いを意識しながら学生時代を過ごしました。京都大学を訪ね、彼の下宿に泊まり、西田幾多郎先生ゆかりの「哲学の道」を共に歩いたことは、今も心に残る思い出です。就職に際して、彼は「地元を良くしたい」との思いから長野県庁へ、私は同じ思いながら霞が関の自治省へ進みました。太田さんは長野五輪の事務方を見事に務め、霞が関や米国事務所でも活躍し、やがて「長野県庁を背負って立つ男」と誰もが認める存在となりました。しかし運命は彼に試練を与えました。同期の田中康夫氏が知事となり、太田さんを重用しましたが、その後の政局の変化で厳しい立場に置かれることもありました。それでも彼は持ち前の明るさで困難を乗り越え、遂には部長、副知事へと昇進しました。私も国会議員となり、いつか「高校同期で知事と衆議院議員が地元を支える日が来るのでは」と夢見たこともありました。やがて太田君は安曇野市長の後継として白羽の矢が立ちました。副知事から市長へという異例の転身でしたが、彼は「臼井吉見の『安曇野』を三度読破するほどの安曇野愛」を胸に、地元の声に応えました。四年前に初当選し、つい先ごろ無投票で再選を果たしたばかりでした。太田君は友情に厚い人でした。通常、市長は党派性の強い選挙応援を避けますが、彼は半世紀以上の絆を重んじ、私の応援演説に立ち、力強く、そしてユーモアあふれる言葉を贈ってくれました。その友情は一生忘れません。彼は政治の力に頼らずとも、自らの人脈と努力で長野県庁や霞が関に広いネットワークを築いていました。その太田さんを失い、安曇野市の行く末を思うと胸が痛みます。私自身も、彼と共に安曇野を盛り立てようと心を砕いてきただけに、深い喪失感を覚えます。しかし、時間は止まりません。太田さんの安曇野への思いを受け継ぎ、私たちはさらに力強く歩みを進めなければなりません。どうか天上から、残された私たちを見守ってください。太田イズムが安曇野市に息づき続けることを、どうか見届けてください。


令和七年十二月三日
半世紀を共に過ごした友人 務台俊介


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