自由民主党

衆議院議員 むたい俊介オフィシャルサイト 長野2区 自民党
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理念・政策・メッセージ

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2012.08.18

「政治と宗教をもっと学ぶことの必要性」

〜学校教育の盲点〜


 日頃政治活動と大学教員の二つの立場で活動を行っている中で、社会の様々な局面と向き合うことが増えているが、その中には教育や政治・宗教とのかかわりについて考えさせられる場面が多々ある。


 大学受験生向けにオープンキャンパスの模擬授業を行う役割を引き受け、8月中旬に大学の教室で午前午後の2回に分けて普段私が大学で行っている授業のさわりを実演した。


 高校生ばかりが受講生だと思っていたところ、高校生に親御さんが帯同し、親子で授業を聞いていたことには驚いた。同僚の教官に聞くと、このところ、ずっとこんな状況なのだそうだ。


 親が子供とともに大学キャンパスと授業の内容をチェックし、それで大学受験を決める、というパターンが日本では結構定着しているようだ。


 入学後、授業を受けるのは学生であるが、親がその内容をチェックすることが常態化していることは驚きである。しかし学費を親が負担するのであればそれも一つの考え方なのかもしれない。


 その大学教育に企業が期待するものは何か、というアンケートがあるが、多くの企業は大学教育に幅広い教養を身につける場としての機能を求めているとのことである。専門知識を大学教育に求めるのではなく、社会人になった時に恥ずかしくないような厚みのある教養を身につけて欲しいと期待しているのである。専門知識は大学院や社会人になって身につけるもので、学部の時代は幅広い教養(リベラル・アーツ)習得の時期と期待している。


 果たしてその教養が大学時代に身につけられるのであろうか。


 過日、松本市内の開業医の御自宅を訪問し、収集したフルートの展示物をお見せ頂いた。開業医の仕事とは全く関係のない分野を趣味としているこの医師は、人生における教養の意義について一つの考え方をお持ちであった。


 「一見世間の役に立たないことを大事にすることこそが文化であり、それを深めることが教養である」として、このお医者さんは、芸術性の高い万年筆も収集し、その収納箱を特注で作り、その費用は、金に糸目をつけずに支払ったのだそうだ。それは松本の地で収納箱を作る技術を持つ職人に対する尊敬(リスペクト)の意味があるとその医師は語っていた。


 勿論経済的に余裕があるからそのようなことが出来るのだが、経済的にゆとりのある人でも値切る人は多い。そこはやはり文化というものを大事にする気持ちをその人が持つかどうかで対応が分かれるのだろう。


 直ちに実用的ではないかもしれない分野の興味を持ち、それぞれの立場でその分野を極める。このことを我々はもっと考えなくてはならないかもしれない。


 日本人は、外国の言葉を学ぶのに、英語、中国語、フランス語、スペイン語といったその時代その時代の主流の言葉を選択しがちである。しかし、真に外交を大事にしている国は、世界のありとあらゆる国の言葉を研究している。何かがあった時にその地域が脚光を浴びないとも限らない。これは文化を大事にする観点というよりも安全保障上の観点があるのだろう。


 何でも一辺倒になるのではなく、多様性、興味の分散、森羅万象に畏敬と関心を持つということが今こそ求められるのではないか。


 教養をそのようにとらえれば、世間には教養の持ち主は溢れている。教える側は大学の教官に限るものではない。大学は、そのような教養を身につける一つのステージ・アリーナとして機能すればよい。


 そのような意味で、今の学校教育の中身に明らかに欠けているのは、政治と宗教に関する関心ではないかと思う。学校現場では、政治と宗教は遠ざけておくべきものとの意識が一般的である。しかし、現実社会は、大きな意思決定機能を持っているはずの政治と精神世界で大きな支配力を有する宗教の位置づけが極めて重要である。


 学校教育でこうした政治の在り方や宗教の実態から距離を置いているために、学生たちは政治的な関心から遠のき、宗教に対しては逆に無防備になりつつある。学生の投票率の低下は目を覆うものがある一方で、知らないうちにオウム真理教がまた若年層に浸透する可能性が語られている。


 一見、直ちには役に立たないものに興味を持たせ、それぞれの立場で幅広い教養を持たせる教育を施すことで、我々は精神的にタフで雰囲気に流されることがなく、しっかりとした意思決定ができ、国際的にも評価されるような教養あふれた日本人を育くむことができるのではないか。


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