「制度の束によって人間の安全保障を」

〜今再認識すべきセンの言葉〜

 市場原理主義の嵐の結末が、サブプライム問題をきっかけに世界を震撼させている。インド出身の経済学者アマルティア・セン(Amartya Sen, 1933年11月3日 - )先生の講演録である「貧困の克服」(集英社新書)を読み、その発言の今日的意味を再確認する思いがする。先生は、行過ぎた市場経済市場主義路線ではなく、人間中心の経済政策への転換が必要であると力説されている。

 この講演録の内容は1997年、1999年、2000年におけるシンガポール、東京、ニューヨーク、ニューデリーに於ける記録であるが、私の心に響いた言葉を以下に書き留めた。セン先生は、経済学者ですが、哲学も勉強されている。インドの大詩人、タゴールが名付け親でもある。

 現在の日本では、市場経済化の中で格差社会の拡大が大きな政策課題に発展しているが、セン先生は、明治以降の日本の人づくり、基礎的教育の取り組みを賞賛されているだけに、今の実態を当の日本人から見ると、やや複雑な思いもしてくる。そういう意味では、日本も欧米ばかりを見るのでは無く、過去の日本の発展の歴史を改めて噛締める意味があるように思える。古きを訪ねて新しきを知る、ということである。セン先生も、9世紀の唐の詩人、司空図の「与古為新」を引いて、このことを指摘しておられる。今日的な意味で日本人に向けたメッセージでもあるように思われる。

・市場メカニズムは、それを通じて人々が互いに交流し相互利益に結びつく活動の基礎となる制度。幅広い効用を合理的に批判するのは難しい。問題が生じるとすればそれは市場メカニズムそのものからではない。たいていの場合は、市場の外部に原因が見つかる。

・市場取引を利用するための制度的準備がなされていないこと、無制限に情報隠匿が行われてしまうこと、権力者達が有利な立場を利用して独占的に得た情報をもとに投資活動を行ったり、資源を濫用したりするのを放任しておくことなどが、問題を生じさせる。問題に対処するためには、市場メカニズムを抑制するのではなく、より円滑に、そしてはるかに公正に機能させることが必要。

・市場メカニズムが大きな成功をおさめることができるのは、市場によって提供される機会をすべての人が合理的に分かち合う条件が整備されている場合のみ。それを可能にするためには、基礎教育の確立、最低限の医療施設の整備、経済活動のために不可欠な資源を広範に分かち合い自由に利用できること、などが実現されなくてはならない。

・学校教育、医療、土地改革などの充実のためには、さらに適正な公共政策も必要とされる。市場の機能をもっと活性化させるためには「経済改革」が至上命令とされているような事態においてさえも、社会的チャンスの創出をはかることはきわめて重要。

・社会的チャンスを創出するための公共政策の推進は極めて重要。社会的チャンスを均等に分かち合うことができれば、多くの人々が経済拡大のプロセスに直接参加することが可能になるから。

・日本の成功の経験は、「教育の普及を徹底する」ことで、「多くの人々が、経済活動と社会変革に参加することを可能にした」。日本では、早い時期から学校教育の普及と人間的発展を優先させてきたし、今日においても、そのことに変わりはない。

・重要な事実は、それが100年以上も昔に遡るということ。日本が豊かになってからはじめて導入されたものではない。発展のために何よりも最初になされるべきは、金持ちや地位の高い人々のためにではなく、むしろ貧しい人々のためになるような、人間的発展と教育の普及の実現。これは、近代史全般を貫く日本経済の発展戦略を見ればわかること。

・社会的チャンスの創出は、人間の潜在能力と生活の質の飛躍的発展を可能にする。

・「東アジアの奇跡」は、人間的発展を重視して、国家と市場が相互に補い合うものであるという「東アジアの戦略」によって実現したもの。

・繁栄をきわめている経済ですら突然に深刻な問題に見舞われることがある。こうした問題が発生した時には、さまざまな社会構成集団が分裂し明暗を分けて困窮に陥ることもある。これこそが、人間の安全保障が、なぜ極めて重要であるかの理由。未来のための新しい戦略を模索するにあたっては、保護のための安全保障の必要性をきちんと把握しておかなければならない。

・さまざまな制度の相互補完性について従来の認識を尊重しつつ、さらに新たな形を与えて、それらの制度の相互に補い合う範囲や適用対象を広げる必要がある。

・物事が順調にうまく運び、すべてがいつものように滞りない状態にある場合には、民主主義が手段として果たす役割が切望されることはあまりないかもしれない。しかし、何らかの理由で、物事の状況が一転してしまう場合には、民主的な統治が生み出す政治的インセンティブが大変実際的な価値を獲得する。市場システムが生み出す経済的インセンティブだけに集中して、民主主義制度によって保障される政治的インセンティブの方を無視すると、非常に不安定な基本原則を選択することになる。

・経済テクノクラートの多くは、市場システムが生み出す経済的インセンティブの利用を奨励しながら、民主主義制度によって保障される政治的インセンティブのほうは無視してしまいがち。

・一見健全そうに見える国家においても、経済等の環境変化が生じたり、政府の政策の誤りが修正されないことによって、その安定状態がいつ崩壊するかわからない危険がひそんでいる。

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