「教育を如何にして再生するか」

〜責任・権限が分散する我が国義務教育制度の課題〜

 日本の義務教育の水準が世界最高レベルとされていた時代は終焉した。PISAの学力調査では、日本は世界のトップクラスには最早位置付けられていない。水準低下の原因は、「ゆとり教育」にあるという意見が多い。確かに学校5日制の導入で授業時間が大幅に縮減される中で、授業カリキュラムを大幅に「簡素化」した影響はあるのだろう。

 私はその一方で、ほかにも制度的な原因があるようにも思われて仕方がない。それは、義務教育に関する責任の所在が不明確であるという点である。

 大津市の中学校のいじめ自殺問題などを見るまでもなく、義務教育の現場が混乱している。こうした場合、学校現場、市町村長、市町村教育委員会、県教育委員会、警察当局、文部科学省といった関係者がそれぞれの立場で様々な対応を行っている。これらの動きをみるにつけ、私は少なからず違和感を覚えることがある。

 そういう目で、国、都道府県、市町村、学校現場という階層で義務教育に関する責任分担を垣間見ると、義務教育の小・中学校の制度運営に関し様々な主体が複雑に絡み合っていることが判明する。

 先ず、市町村立小・中学校の先生は、基本的に市町村職員である。しかし、身分と任命は異なり、教員の任命は県の教育委員会が行い、その県は小・中学校の先生の給与も負担する。そして国はその給与費の1/3を負担する。市町村は学校建物の建築を行うが、実際に子供に教育を教える教員に対する権限は全くないのである。

 教育の中身について言えば、教科書は国による検定受けた教科書であり、それらは必ずしも、それぞれの地域の固有の事情が反映した教科書ではない。そして、各クラスをどの様な学級編制にするのかについては、国が学級編制の標準を法定し、県がその標準に基づき基準を定め、市町村教育委員会がそれを実施するという流れになっている。

 義務教育というのは、子供たちに国民としての最低限の学問水準を身につけるという目標に加え、地域社会からすると、地域の将来の支え役としてしっかりとした子供を育みたいという強い願いがあるはずだ。しかし、その割には、市町村に与えられた義務教育上の権限は余りにも少ない。これでは義務教育の統合的なマネージメントはできない。

 私が市町村長だとしたら、地域に所在する小・中学校の水準を上げることを願い、それを実現するためにマネージメント能力に長けた立派な校長を選び、その校長に権限を与え、学校運営を地域に密着した個性豊かで内容豊富なものにしたいと考えるであろう。しかしそれを実現する手段は市町村長には与えられていない。

 私が一時期過ごした英国では、その市町村を飛び越し、学校理事会に大幅な権限が与えられている。学校の管理・運営の意思決定はこの学校理事会が行い、校長はその執行機関という関係に立つ。生徒数を基準に各学校に配分される予算の使途は特定されず、幅広い裁量の余地が学校理事会にある。校長は、様々な資金提供団体との交渉役でもあり、日本の校長の機能とは大きく異なる。

 英国並みに学校現場に権限を下ろせとまでは言わないが、少なくとも現在の日本の義務教育システムは、余りにも権限が分散し責任の所在が曖昧になっているように思えて仕方がない。責任の分散は結果的に無責任状態に結びつく。

 大津市の中学校のいじめ問題で、大津市長が記者会見で謝罪している姿が放映されていた。権限のない市長が謝罪する姿は問題の解決とは全く関係が無い虚構の姿のように私には映った一方で、文部科学省の職員が大津市の中学校に乗り込んで対応するという報道に対しては、現場の問題解決のやる気を殺ぐ国の過剰な権限行使のようにも感じられた。

 義務教育に関しても、その水準を高めるためには、地域社会の将来を支える子供たちを育てる責任のある市町村、更には学校現場への大幅な責任・権限の集中が求められていると思う。


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