「信濃の「昆虫食文化」と地域再生のヒント」

 霞が関に勤務していた時分、当時の職場には長野県出身者が多く、折に触れて長野県出身者で懇親会をしたことが懐かしく思い出される。そうした折りに必ず話題になるのが「昆虫食文化」であった。長野県の東部の上田・佐久地方のある先輩は、「俺の地域ではゲンゴロウを食する文化があり、お祝いの時には、ボール一杯のゲンゴロウを茹でたものが出されたこともあった。大学入学で東京に出てきたとき、ゲンゴロウが空を飛んでいるのを見て驚いた(実はこれはゴキブリと間違えたようだ)」、と大きな声で語っておられた。

 私が、「その飛んでいるゲンゴロウを、まさか、召し上がったわけではないですよね」といたずらっぽく指摘すると、周りの人がワッと沸いた。可哀そうにその先輩は、少し顔を赤らめた。

 一方で、長野県の南部の飯田・伊那地方出身の後輩は、飯田・伊那地方の人はよくザザムシを食するとの話を紹介した。ザザムシは「トビケラの仲間」「カワゲラの仲間」の幼虫で、幼虫期は水中に棲み、流れのゆるい浅瀬の石をひっくりかえすとそこにへばり付いて暮らしている虫だ。高蛋白故に長野県南部出身者は才気煥発で優秀な人が多いとの俗説も語られる。私の後輩も、頻繁にザザムシを食べたのか、大変優秀だった。

 長野県中部の松本周辺は比較的豊かであったためかあまり昆虫食の話は聞かないが、それでも私の子供の時には、イナゴを捕って食した。我々より前の世代は、学校行事でイナゴを捕るために生徒が一斉に田圃に出たこともあった。当時読売新聞にお勤めの高校の先輩と大糸線でばったりお会いした折に、列車の中でこの話で盛り上がった。

 戦時中は、蚕の蛹も食したという話を聞く。蚕の蛹は、ハングルでポンデギと発音する。ソウルオリンピック前には結構ソウル市内にも屋台があった。私もソウルの屋台で食べたことがあったが、気になる独特の臭いはあるが味は悪くなかった。残念ながら、ソウルオリンピックを機に余り見られなくなったとの話を聞く。

 驚いたのは、松本市の坪田副市長から、「戦時中はカマキリのはらわたを取り除いたうえで食べたことがある」という話も伺った時だ。長野市出身の次官経験者が、「そう言えば、昔親戚の家に行ったときに、ミズスマシをフライにして食べているのを見たことがある。沢山あつめればあんな小さいものでも食べられるんだね。俺は食べなかったけれど」という話をされたのには驚愕した。

 貧しければ貧しいなりに、いろいろ工夫して生きぬく術を信濃の先人達は編み出してきたということかもしれない。しかし、こういう話を余り他所で話すのはあらぬ誤解を受けるのでお互いに慎もうという話に自然と収斂した記憶がある。

 そういう昔話が記憶から薄れかけた折に、新聞の地方版の記事で伊那市役所の牧田豊氏の話に触れる機会があった。牧田氏は市役所職員の傍らザザムシ研究の第一人者なのだそうだ。

 牧田氏の、何故上伊那にこの昆虫食文化が残されたのかとの分析に思わず唸ってしまった。「山間部だから蛋白源として重宝されたとよく言われるが、それだけでは十分ではない。ザザムシは天竜川以外でも取れる。上伊那に残ったのは、大正時代に創業した『かねまん』という地元企業が戦後間もなく50年代にザザムシを土産物として確立し、販路を拡大したから。東京の料亭にも卸していたという。漫然と店先で売っていただけなら消えてしまっただろう」とのコメントを目にした。最近ではグルメ漫画「美味しんぼ」で美食家の海原雄山がザザムシを食べているのだそうだ。

 土産物として成立させたからこそザザムシという地域の食文化が残ったとの牧田豊氏の指摘に、地域資源の高付加価値化、市場への売り出しの考えるヒントを垣間見る思いがした。信州人も独自の昆虫食文化を恥ずかしがらずにもっと堂々とPRしてもよいかもしれないと考え直すべきかもしれない。


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