むたい俊介
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長野2区 自民党
【メッセージ】
「墳墓の地 安曇野市を元気に」
〜太田前市長の思いを継承〜
私にとって安曇野は、まさに「墳墓の地」、先祖代々の魂が眠る大切な場所です。古くからの一族の墓が三郷にあり、江戸時代には私の6代前の祖先が播隆上人と共に槍ヶ岳に登った記録も残されています。10年以上前にその槍ヶ岳に私も登頂し、先祖の思いを共有したことが思い出に蘇ります。蝶ヶ岳、燕岳、常念岳、有明山にも登り、北アルプスの峰々から眺める安曇野は「約束の地」の様にすら感じられます。また、光城山、長峰山、城山などの東山から眺めるアルプスはなんとも形容のしようも無い神々しさに溢れています。ここが私のふるさとなのです。
戦時中、父は満州に渡り、敗戦後はシベリアに抑留されました。60万人の抑留者のうち6万人が命を落とすという過酷な状況の中で、「必ず故郷に帰るんだ」という思いが父を支えた。私はその話を何度も聞かされました。だからこそ、故郷に帰ることの意味、安曇野に生きることの重みを強く感じています。
父は帰還後、教員となり、母も同じ教員仲間。私はその長男として生まれ、幼い頃から安曇野で育ちました。昭和38年に豊科町に家を建てて以来、途中で外に出た時期はありましたが、かれこれ62年間、この地を拠点に暮らして来たことになります。
豊科小学校、豊科中学校、松本深志高校、そして東京大学法学部を卒業し、自治省に入りました。広島、群馬、茨城、さらにはロンドン事務所勤務までの29年間、公務員として国の内外で研鑽を積みました。その後、神奈川大学教授を経て、衆議院議員に当選。4期12年、国政の場で働いてきました。
安曇野市との仕事を通じたご縁も思い出深いものがあります。20年前に安曇野市が誕生した合併記念式典では総務省の課長として挨拶をし、日赤の建て替えでは合併特例債を活用できるよう道を拓きました。代議士になってからも、国道19号線の歩道拡幅、安曇野インターの名称変更、高家体育館の整備、犀川堤防の進捗、松糸道路の促進など、安曇野のために微力ながら支援をしてきました。
実は30年以上前、当時の豊科町長選の候補者選びの際に、水谷太一元町長から町長選への出馬の依頼を受けたこともありました。当時はまだ若く、更に幅広く修行を積みたいとお断りしましたが、「いつかはそういう立場になるかもしれない」とお伝えした記憶があります。また、私の伯父は安曇野市に合併した旧三郷村の村長を務めていた縁もあります。村長選挙の際に、当時の三郷村の本家に集まった支援者の皆様の熱気を今でも覚えています。
水谷さんからの打診を受けた後、私は茨城県総務部長、総理府地方分権推進委員会参事官、総務省消防庁防災課長、安全保障会議事務局参事官、総務省自治財政局調整課長、自治体国際化協会ロンドン事務所長など国の内外で経験を積む機会を頂き、2009年の衆議院選挙に出馬。この時は落選したものの、神奈川大学法学部教授を経て、2012年の衆議院選挙で初当選。その後、4期12年の地元出身の代議士として活動を継続させて頂いて来ました。
その間、光栄なことに、内閣府政務官(地方創生担当、防災担当)、環境副大臣、内閣府原子力防災担当副大臣、衆議院環境委員長といったポストに就かせて頂き幅広い経験を積ませて頂きました。また、議員立法も手掛け、私が中心となって実現した「山の日」祝日法、消防団基本法、自転車振興基本法、過疎新法などを制定させて頂くこともできました。
昨年の選挙で議席を失った後は、若手に道を譲りつつも、地域を元気にする、若者を地方に呼び戻す、災害に強い地域をつくる――そんな使命感は変わらずに胸に抱き、自らが設立した防災系合同会社や団体活動を通じて具体的な活動に取り組んでいます。最近では、ウクライナの復興支援の手法を探るためのキーウ訪問、我が国でのシェルター整備の在り方を検討するためのスイス、イスラエル訪問などを実行してきました。
そこに、突然の不幸が起きてしまいました。私の高校同期である太田寛市長が急逝されたのです。太田さんとは、彼が旧堀金村、私が旧豊科町の出身で、高校入学以来、毎朝JR大糸線の豊科駅から同じ列車に乗り、北松本駅で下車して蟻ヶ崎の坂を駆け上がった仲でした。彼が京都大学法学部、私が東京大学法学部へと進み、学び舎は東西に分かれましたが、互いを意識しながら学生時代を過ごしました。京都大学を訪ね、彼の下宿に泊まり、西田幾多郎先生ゆかりの「哲学の道」を共に歩いたことは、今も心に残る思い出です。
就職に際して、彼は「地元を良くしたい」との思いから長野県庁へ、私は同じ思いながら霞が関の自治省へ進みました。太田さんは長野五輪の事務方を見事に務め、霞が関や米国事務所でも活躍し、やがて「長野県庁を背負って立つ男」と誰もが認める存在となりました。彼は部長、副知事へと昇進し、私も国会議員となり、いつか「高校同期で知事と衆議院議員が地元を支える日が来るのでは」と夢見たこともありました。やがて太田さんは安曇野市長の後継として白羽の矢が立ちました。副知事から市長へという異例の転身でしたが、彼は「臼井吉見の『安曇野』を三度読破するほどの安曇野愛」を胸に、地元の声に応えました。4年前に初当選し、つい先ごろ無投票で再選を果たしたばかりでした。彼は政治の力に頼らずとも、自らの人脈と努力で長野県庁や霞が関に広いネットワークを築いていました。太田さんは友情にも厚い人でした。通常、市長は党派性の強い選挙応援を避けますが、彼は半世紀以上の絆を重んじ、私の応援演説に立ち、力強く、そしてユーモアあふれる言葉を贈ってくれました。その友情は一生忘れません。
その太田さんを失い、安曇野市の行く末を思うと胸が痛みます。私自身も、彼と共に安曇野を盛り立てようと心を砕いてきただけに、深い喪失感を覚えます。しかし、時間は止まりません。太田さんの安曇野への思いを受け継ぎ、私たちはさらに力強く歩みを進めなければなりません。半世紀にわたって交友を重ねてきた太田さんが描いた安曇野の未来を、私なりの方法で、これまで培った幅広いネットワークを駆使して実現したい、最後のご奉公として、安曇野のために力を尽くしたい、それが私にとって天命なのかなあと思い定めました。私は、安曇野市の皆さんの思いに身を委ね、この地をさらに元気にしていく覚悟です。
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