「国家的正常性バイアスからの脱却の時」
〜非常時の対応システムの必要性〜

(平時と非常時の切り替えができない日本)
 東日本大震災から今年の3月で10年が経過しました。そして東日本大震災から10年後の今、我が国は新型コロナウィルス禍に見舞われています。大震災や感染症パンデミックを経験し、我が国は国の在り方、政策の方向性について、否が応でも強い問題意識を持たざるを得ない状況に置かれていると言えます。

 最初の選挙での落選中東日本大震災を経験し、大震災の翌年に代議士になった者として痛烈に感じているのは、日本は平時と非常時の切り替えがしにくい国になっているとの思いです。コロナ対応もしかりです。新型コロナに対応すべく新型インフルエンザ特措法が改正されましたが、予めこうしたことを想定して制度を用意しておくのではなく、新たな感染症が起きてから対応策を制度として用意するという手法になっています。起きる前に非常時を想定して準備するのではなく、起きてから制度を用意して対処する手法が日本の特徴です。その特措法の改正ですら、憲法に保障する基本的人権を侵す恐れがあるとして強い慎重論が沸き上がりました。これは、平時の感覚で非常時を論じるという発想です。

 災害対応も同様で、災害があるたびに災害対策基本法などが微修正されて今日に至っていますが、その根本にある考え方は、やはり平時の感覚で非常時の制度のあり方を考えるという発想です。新型コロナワクチンに関しても、米国、英国、ドイツさらには中国、インド、ロシアが先行してワクチンを開発、接種開始に至っていますが、我が国の国産ワクチンはまだ開発段階です。その根本原因は、ワクチン開発能力の問題というよりも、開発したワクチンを接種段階にまでもっていく制度上の手続きに制約があり、今回のようなスピードが求められる時に全く手遅れになり機能しないということです。これも平時の感覚に引きずられている事例と言えます。

 安全保障上の対応もまったく同様です。中国が国際海洋法に違反する内容の海警法を改正し、外国船舶への武器使用を容易にする制度を導入することにより、我が国の領土である尖閣諸島の奪取に向けての動きを支える体制を強化しましたが、我が国はその中国の動きに弾力的に対応する制度が用意されていません。非常事態を想定する仕組みが不足していることは明らかですが、政府の動きは緩慢と言わざるを得ません。

(根源は日本国憲法の思想に)
 なぜ日本はそういう状態に陥っているのでしょうか。日本人の温厚な特質にそういう側面があるのでしょうか。私は、決してそうではないと考えます。幕末の日本人は、迫りくる西欧列強の脅威を目の当たりにして、明治維新という大規模な制度の張替えを行いました。私の考えでは、今の日本人の発想を突き詰めていくと、根源は先の大戦の敗北とその結果生まれた日本国憲法にあると考えています。日本国憲法はその前文で、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」と規定しています。自らの安全と生存を自ら守り確保するのではなく、他国を信頼して依存するということを宣言しているのです。この理念自体は大変崇高で素晴らしいものですが、現実の世界の中で果たして通用するかというと大きな疑問符がつきます。我が国の領土を不法占拠している国々、我が国の領土に野心を持つ国、我が国の国民を不法に拉致し長期間にわたり帰還させようとしない国の存在を目の当たりにして、我々はこれらの国の「公正と信義に信頼」に依存して自国の安全と生存を確保することができるのでしょうか。しかも、不法を働いている国々には、国連の安全保障理事会の常任理事国として拒否権が与えられているのです。

 その上で、憲法9条では戦力不保持、交戦権の否定を規定する一方で、非常時における国の対応についての基本的考え方について日本国憲法は規定を置いていないのです。言ってみれば、我が国の憲法は、いざという時のことは考えずに、平和や平時を前提の仕組みだけを考えていればよろしいと言わんばかりの考え方を国民に示しているということができます。

 今の日本国憲法が、日本が独立を回復する前の占領下で制定され、主権に制約があった中で制定されたことを考えれば、今の日本国憲法の仕組みが日本という国の機軸を強化すべきではないとの発想に立って作られたことは容易に想像できます。しかし、戦後75年以上が経過し、この間、今日の緊迫した安全保障環境、大災害の経験、パンデミックの発生という事態を経験し、更には今後なお一層の危機的状況が見込まれる中で、いつまでも過去に引きずられた思考の下に国の制度を維持していくことは政治的不作為の誹りを免れません。

 そのためには、国の最高法規である日本国憲法に非常事態条項を規定し、平時と非常時のモード切替が必要である事態を前提とした法制度の束を作り上げていく議論を開始することが必要であり、憲法9条に関しても、今日的な安全保障環境の激変を前提に、自衛隊の実態を踏まえた改正議論が必要です。

 しかしそういうまっとうな議論が肝心の国会の場では進みません。憲法審査会でこうした議論をしようとしても、議論の仕方の入口で滞り、長期間憲法審査会は空転し続けています。私もこの数年、衆議院憲法審査会の委員に就任していますが、発言の機会が極めて少ない状況に忸怩たる思いを懐き続けてきています。

(正常性バイアスからの脱却)
 正常性バイアスという言葉があります。社会心理学や災害心理学上の用語ですが、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価してしまう人の特性を指す言葉です。自然災害や大事件、事故といった自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、それを日常生活の延長線上の出来事としてとらえてしまい、「自分は大丈夫」、「まだ大丈夫」と過小評価し、結局逃げ遅れ等の原因になってしまうことを指しますが、いまや日本という国家がその正常性バイアス状態に陥っていると言っても過言ではありません。日本が、これから起きるであろう非常事態の中で、「逃げ遅れ」にならない仕組みの構築、それが必要不可欠であるとの意識を持たなくてはなりません。そしてそのためには、我々を取り巻く様々な環境の変化、つまり安全保障環境の変化、地球温暖化の影響、災害の大規模化、パンデミックの発生可能性といった危機の発生可能性について客観的な情報共有とその評価が必要になってきます。国民全体が正常性バイアスの陥穽を抜け出し、真っ当な感覚に戻らなければなりません。個人として人が良い人は好かれます。しかし国家としてお人よし国家は危機の相手方に付ことになります。

(AIに処方箋をつくらせたら?)
 戦後75年を経過し、311から10年を経過し、新型コロナ禍を経験し、我々はそろそろ目覚めなければなりません。危機から国民を、領土を、地域社会を、日本の尊厳を守るために何が必要かということを、今の日本が置かれた状況下で、AIを使って日本の非常時対応に必要と思われる処方箋を作らせたら、真っ当な国にするための制度設計の束がたちどころに出てくることでしょう。そしてそれを妨げている日本人の精神状態を正常性バイアスに陥っていると診断することになることは明らかです。その第一歩として、国民投票法の改正すらも行えない憲法審査会の現状は、早期に正すべきです。

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