むたい俊介
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長野2区 自民党

【メッセージ】
「埴原城は国民の宝だ!」
〜地元が自らの歴史文化を認識することの大切さ〜

 2009年2月21日、松本市中山公民館で笹本正治信州大学教授の「埴原城は国民の宝だ」というセミナーに参加する機会があった。たまたま訪問した中山地区でこのセミナーが予定されているとの話を小林公民館長から伺い、飛び入りで聴取させていただいた。150人もの聴衆で会場は熱気で満ちていた。

 講演の模様は、2年前の2007年3月17日に探訪させていただいた埴原(ハイバラ)城を訪問時に伺った話とほぼ同じであった。笹本教授は日本の中世史の専門家で、少し前まで長野県文化財保護審議会会長でもあられた方である。その笹本先生の先導により2年前に小宮山淳信州大学学長、松本市立考古博物館の関係者、笹本先生のゼミ生らとこの遺構を訪問する機会を得ることができた。

 埴原城は急峻な山城の遺構なので、登山靴を履きリュックを背負ってた出で立ちで、標高785mの麓の蓮華寺に車を止め、標高1000mの山城の本丸跡地まで片道約1時間半の山登りであった。笹本教授の生徒が実際に「縄張り」を行い作成した1キロ四方の大規模山城の鳥瞰見取り図を頼りの探訪となった。

 山の尾根伝いに「くるわ」と呼ばれる土塁の陣地が幾重にもあり、攻めてくる敵を「くるわ」の上から迎撃する仕掛けが施されていた。狭い道は「くるわ」を巡る形になっており、「くるわ」からは丸見えで迎撃されやすい形になっている。「くるわ」と「くるわ」の間は「切岸」と呼ばれる土で作った段差がきつく、敵が攻め上がるのが非常に難しくなっている。

 尾根伝いには尾根筋と垂直に「堀切」が切られ、尾根に人工的なアップダウンをつけています。本丸の手前には「水場」の跡があり、岩で囲われた穴からは水が浸みだしていた。

 本丸には石垣が築かれていた。松本城にある「穴太積」(アノウヅミ)と呼ばれる技術が導入される前の土着の石積みで、簡単な石積みであった。大きな岩が「岩座」(イワクラ)として本丸に残っていた。この岩座は、神の加護を意識した当時の考え方を伝えているのだそうだ。

 埴原城は、しかし、単に登るだけでは、やけにアップダウンのある山だなあと思う程度である。笹本教授の話を聞きながら登ったことで初めて遺構の意味がよく分かる。

 笹本教授の話では、「地形と自然と歴史を知らないと歴史的遺構の持つ意味は分からない」のだそうだ。例えば、地滑り地域を「切岸」と見間違うこともあり得ないわけではないのだそうだ。ちょうどCTスキャンでの診断の仕方が名医と平凡な医師では異なってくるようなものでしょうかね、小宮山学長と会話をした。

 笹本教授の説では、埴原城は、武田氏が滅亡し、豊臣政権が天下統一を果たすまでの間、天正10年(1582年)から18年(1590年)までの間に、小笠原氏によって築城されたのではないかとの見立てであった。

 戦国の最末期、信州の中信地域は、徳川氏をバックにした小笠原氏、上杉氏、豊臣氏をバックにした木曽氏、そして(後)北条氏の4大勢力がこの地の覇権を競い、守護の小笠原氏は、権力の空白という異常な事態を前に、いざというときに備えた最後の砦をこの山城に築いたのではないかというのが笹本説であった。当時の先が見えない騒然とした時代背景の中で、兎も角も立て籠もりに絶対安全な山城を求めたという説である。

 難攻不落の山城だが、実際に闘いの場となることは無かったのではないかとの説が笹本説であった。松本市の教育委員会では、「乾の砦」が天文19年(1550年)武田の手に落ちた史事の「乾の砦」がこの山城ではないかとの説に基づき、説明の立て看板にはその旨が書かれていたが、笹本教授は間違いだと断言された。小笠原長時が当時この様な要害を築城できたのであれば、容易に落ちることはなかったはずだ、と。

 ところで、、現在の松本城は、石川数正が小笠原氏、武田信玄、再度小笠原氏を経て松本城主となった際に城の大改築に着手したものが引き継がれているが、城の歴史からいうと、松本城の前の城の形態が埴原城などの一連の山城なのだそうだ。

 松本というと松本城しか思い浮かばないのが普通の人であるが、それ以前の中世の山城にこそ、生きるか死ぬかという戦国時代のギリギリの戦乱の歴史が染みこんでいるというのが、笹本先生の主張である。そしてこれをもっと掘り起こせば、松本の歴史はより奥深いものとなるはずだ、と。2007年の探訪はそのことを私たちにも理解させようという趣旨に基づく最高級ナビゲーター付きの探訪となった。

 松本地域の山城には、埴原城の他に林城、桐原城、山家(ヤマベ)城などがあり、その中で保存状態がよいのが埴原城なのだそうだ。しかし、2年前の埴原城跡探訪の際、歴史的山道が削り取られているのがやけに目についた。山頂に行くと、その理由が理解できたような気がした。山頂から間伐した木材を山道を使って降ろしているのだが、木を降ろしやすくするために、カーブをカットしていたようであった。笹本教授はこのことに何度も懸念を表明し、松本市の担当者に、そのことを伝えておられた。

 林城も探訪したが、本丸まで車道を作ったために、「堀切」、「切岸」などが埋められたり、途中で切られたりして、史跡の価値がだいぶ減じられてしまったとの笹本先生の話であった。それでも、林城から見る松本及び北アルプスの風景は絶景だ。この地域を睥睨する気分になる。この山を、小笠原氏の主城と定めた気持ちが伝わってくる。

 ところで、笹本教授の「埴原城は国民の宝だ」というセミナーの意図は、この史跡は国家レベルの史跡であるにも拘らず、地元の人々、地元自治体がその価値を理解していないために、文化庁に働きかけが不足していることを訴えるものであった。教授は、専門家を集め、古文書に記されていないこの遺構の歴史的位置づけをきちんと調査し、それを基に国史跡として位置づけを図るべきであるとの考えを表明されておられた。

 私も笹本教授の考え方に全面的に賛同したい。地元に存する潜在的な歴史・文化資源を地元の人たちがしっかりと把握し、それを地元自治体がフォローし、それをその地域の独自の魅力として日本全国、更には世界にアピールしていくことが可能となる。

 我々は日本史の教科書で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった名前は知っているが、地元の豪族であった小笠原氏や西牧氏などのことはほとんど知らないし教えられていない。地元のことを知らない子供たちは真の意味で地元のことを愛しようが無いし他所の人に説明もできない。我々はもっと自分自身の身の回りの真の価値を知らなければならない。

 笹本教授は、地元の人々がもっと足元の歴史・文化の価値を知ろうとしてこそ国も動かすことができる、と力説しておられたが、私も同感である。国や自治体が動かないのはおかしい、と人の責任にしておくのでは物事は進まない。自分自身でどこまでできるのか限界までやってみてそれ以上できないことを公の役割として働きかけていることが必要である。これは、難しい言葉で言うと、「補完性の原理」というものだ。まず地元でやるのが原則、それで無理な場合に自治体が乗り出す、それも無理な場合に国が乗り出す、という「欧州自治憲章」に謳われている精神である。

 身近な地域再生の種をどのように生かしていくのかという議論にもこの「補完性原理」が機能するというのが笹本セミナーに参加しての感想であった。

 ところで、笹本セミナーの直前、近くの公民館での昼食時に、スズメ、鹿、猪、蕎麦、フキノトウ、ナズナ、キノコと地場の食材で作られた食事を頂く機会があった。ひょっとしたら、戦国時代の埴原城の食事もこのような食材で満たされていたのではないかと想像を逞しくした。中山の地元の人は、知らず知らずのうちに先祖の文化風俗風習を継承しているのである。

 都会にいたのでは到底体験できない地域密着型の生活価値を我々自身が認識してこそ今後の地域再生の行方が見えているように思える。「地域再生の種は足もとにあり」、を再認識したセミナーと食体験であった。そしてこのセミナー参加者の熱気からは、確実に次のステージに繋がる可能性を感じた。

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