むたい俊介
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長野2区 自民党

【メッセージ】
「父を偲んで」
〜「3月6日葬儀を終えて〜

 3月6日に私の父、故務台丈彦の葬儀を滞りなく行うことが出来ました。平日のお忙しいところ、故人に縁のある方、弟と私の二人の息子に縁のある方を含め、1,000人を数える多くの人にご会葬いただき、その上御丁重なるご芳志を賜り、心から御礼を申し上げたいと思います。このように多くの皆様にお見送りいただいたことで、父もさぞかし感無量だと思います。

 父は関東大震災の翌年に今の三郷村に生まれ、昭和大恐慌の時代に幼少期を過ごし、戦前、戦中、戦後とこの1世紀近くの日本の破綻と復興の歴史を個人として身を持って体験しました。10代後半で満蒙開拓の一翼を担うべき中国大陸に渡り、開拓団の子供たちの為に旅順師範学校で学ぶつもりが、在学中に関東軍に召集され、そのまま敗戦。直ちに故郷に帰れると思っていたところ、ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留されました。

 2年弱のシベリア抑留を経て、昭和22年6月に帰国を許されました。「懐かしの故郷、北アルプス、白壁のわが家。母がまぶたを押さえて無言で玄関先に立っていた。」という父親の述懐があります。父親は故郷をこよなく愛していましたが、故郷へのこだわりは、異国の丘にあって望郷の念に駆られたシベリア抑留にあったことに間違いありません。

 故郷に帰り、欠員の生じていた教員の職を得ました。故郷で得た教職という立場は、父親にとっては図らずも天職となりました。子供心にも、教師仲間で集い、深夜まで語り合っていた姿が思い出されます。信濃教育の真髄は教師の教育熱心さにあったように思われます。

 葬儀で父に縁のある方4名に弔辞を行って頂きましたが、教育研究仲間、教師仲間、教え子、校長時代の部下の皆様がそれぞれの立場で父の子供一人一人を大事にする姿勢を物語っていただきました。教え子の為に献身的に尽くした親の実相をはじめて知り、私自身も感動しました。教え子が弔辞の中で、「担任の4年間、子供に毎日書かせた絵日記にコメントを書き、卒業時にそれを編集し、全員に本にして渡してくれた。その本は一生の宝です」との話にはグッと来ました。思わず、他の先生方からは迷惑がられたのでは無いか、と感じたくらいです。

 父は、人生のメンターとも言うべき無二の師に恵まれました。哲学者の西田幾多郎氏の孫の教育学者の上田薫先生に師事し、上田先生が立ち上げた「社会科の初志をつらぬく会」に共鳴して、子どもたち一人ひとりの可能性を開く教育に打ち込みました。父の教育実践は、上田理論に裏付けられ、それを自ら行うことにより言行一致を果たしたのでした。

 教師である前に人間としてどう生きるべきか、というのが父親の信条でした。「相手が誰だろうと、筋が通らないことは譲らない」というその心情の原点はあの戦争と抑留体験にあることは明らかです。

 梓川中学校の校長を最後に教育界を退いた後も、地域社会活動に熱心で、教育研究所で活動を行ったり、豊科近代美術館の館長を務めたりしていました。自分の郷土が好きで好きで仕方が無かったのです。

 我々二人の息子は、父が安月給を工面し、しっかりとした教育を受けさせてもらえたことに感謝しなければなりません。私自身は霞が関に勤務し、その後衆議院議員に当選させていただきました。 弟は(株)日本テレビ放送網に入社し、今は系列の衛星放送会社の社長を務めています。教育により今の仕事の基盤を与えて頂いたと深く感謝しています。

 葬儀の日の早朝、父の遺体を霊柩車に乗せ、晴天の安曇野を順繰りに、生家、自宅、初代館長を務めた豊科近代美術館経由で廻り、安曇野市の火葬場に到着しました。近親者でお骨を拾いましたが、父は骨太で骨壺が満杯になりました。祖母の葬儀の時も同じだった記憶が蘇ります。告別式では父が愛した白壁・本棟造り・屋敷林の生家を模した大きな花の祭壇を作りました。花で囲まれた祭壇の中で、父親も満足して西の国へ旅立てたと確信しました。

 父が慕ってきた上田薫先生は、93歳になられ、高齢により御会葬は叶いませんでしたが、父の為に悼句を捧げて頂きました。私からは会葬御礼の折にそれを御披露申し上げました。

 無二の人 共に見し花 いま遠く (薫)

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