むたい俊介
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長野2区 自民党

【メッセージ】
「アルプスの名称を「日本連峰」に」
〜「ウェストン祭」を「播隆祭」に〜

 今年もアルプスは6月初旬に上高地のウェストン祭が無事に挙行され、長野県も本格的な登山の山岳シーズンを迎えた。大勢の登山客が松本駅前に降り立つのを見ると思わず嬉しくなる。

 アルプス登山の幕開け行事に使われるウェストンは、元より立派な方であろう。日本の多くの山岳を踏破して「日本アルプス」という名著を著した英国人宣教師ウェストンの功績は確かに大きい。我々が誇らしげに使う「日本アルプス」、「北アルプス」といった言葉は恐らくウェストンのこの著作から由来するのだろう。

 しかし、私は、かねてより、何故日本人が、日本人が住む日本列島の山々に、わざわざ欧州の山脈の名前を付して呼ぶのだろうかと、素朴な疑問を抱いていた。何故、「日本連峰」とか「信濃連峰」などと呼ばないのだろうかと、疑問に思っていた。

 そして、ウェストン以前に日本人で偉大な登山者はいないのか、と不思議に思っていた。多くの修験道の名も無き行者が登山を試みた事例はあったに違いない。そして、その中でも最も偉大な一人は播隆上人であることは、長野県の地元の人以外はあまり知らない。

 その播隆上人の軌跡を地元に残る古文書を丹念に紐解き紹介した本がある。「槍ヶ岳開山 播隆」(1982年 穂刈三寿雄・穂刈貞雄著 大修館書店)である。槍ヶ岳山荘のオーナーによる著作である。御両人は、播隆上人という高僧の業績を日本山岳史に残す必要性を念じ、丹念な地元資料のかい集・分析を行い、史実に基づく客観的な著作としてまとめた。

 その古文書の一部に、私の先祖の書き記した「公私年々雑事記」があり、この中で天保5年播隆上人の第4回槍ヶ岳登山後から天保11年の播隆遷下までの間の当時の野沢村の播隆上人の動静が当時の庄屋の目を通して詳しく書かれている機縁もある。

 さて、私が申し上げたいのは、日本の登山者は江戸時代に槍ヶ岳に登った播隆上人のことをもっと知るべきではないか、そして「ウェストン祭」を毎年行い、アルプス登山の幕開けの合図としているが、「播隆祭」により「日本連峰」登山の幕開けを祝うべきではないか、ということである。

 現状の理由は簡単である。明治の開国時の過度な西洋崇拝がその背景にある。その後の日本人は、それを無批判に受け継いで来ているのである。

 民芸運動の柳宗悦氏は、名著「宗教随想」の中で、このことに触れ、「ウェストンを認めるのはよいが、播隆上人を忘れる日本人の浅さを想う。槍ヶ岳を見るといつも私にこの嘆きが湧く」と書いておられる。

 私も全く柳宗悦氏に同感である。現在は、松本駅前に播隆上人像が建立され、その碑前でも播隆祭が行われるようにはなっている。播隆上人ゆかりの他の地域でも小規模な播隆祭は行われているようである。この動きを更に広げ、近い将来、「日本アルプス」を「日本連峰」に名称変更し、「ウェストン祭」も「播隆祭」に変更し、日本の山々を本来の日本の山々として世界にアピールしていかなければならないと思う。

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